masashiriのブログ

垂れ流し

都市に置いていかれる個人とは…①

久しぶりのブログ更新。

 

1月から部署替えで、千葉の田舎から東京に転勤。

バリバリの外回りから、内勤に変わり、部署は海外部という冠がついた。

いやぁ、目まぐるしい変化であります。

全く慣れない。東京にも人間関係にも、何より仕事に。

 

2月もあっと言う間に過ぎ去りました、オーストラリアに出張へ行きました。

なに言ってるか全然分からなくて草w

 

会社内に居場所はないし、だからといって出かける先も無く、

ふと居場所が作れない自分が、正確に言えば自分の過去が

間違っていたんじゃ無いかと、解消されない不安を持つ。

 

海外部は3部署目なんだけど、過去2つの部署でどうやって居場所を作ったのかと

聞かれると、分からないんだよね。

いつの間にか出来た居場所に感謝はしてるんだけど、いつ出来たかは覚えてない。

 

きっとそのうち、新しい部署に上手く収まっていくんだろうけど、

そのときに過去の僕の大部分は失われて新しい僕が生まれて、

でも、そのことには気付かなくて、今悩んでる事を書いたこのブログを

見返したら恥ずかしく思うんだろう。

 

たった数年の出来事にセンチメンタルになる自分に驚きつつ、

江戸時代とか明治時代とかに、100年後の日本を想像する絵を描いてた人たちは

今の日本を見てどう思うんだろうと考える。

 

僕がそういう絵画を見たのは小学校高学年〜中学生の時が初めてだったけど、

正直笑ってしまったのを覚えている。

(その時、授業的な正解は当時の人たちの想像性を肯定し、今に共通している

事を探すことだったので、教員は嫌な顔で僕を見ていた…。)

 

未来から考えると今の悩みなんかちっぽけなんだけど、

悩みの分岐点を経て未来があるわけで…。

堂々巡りだけど、今っていうのは思い返すと恥ずかしい事ばかりで、

それを隠すことに 必死で、肯定や否定があるんじゃ無いかと思ってる。

正しいかどうかは知らない。

 

さて、個人という視点からすれば上記の様な感想文で終わるわけですが、

これを「東京で生きる個人」から「都市で生きる集団」に変えるとどうなるのかな。

 

というのが今回の主題です。

(前置き長すぎ…!)

 

六本木 森美術館で開催してる未来と芸術展という企画展に行って来ました。

www.mori.art.museum

 

 

全面ではなく一因ですが、この企画展、11年に開かれた展示会の続き的な

意味があります。

僕が大学3年生の時で、9年経ってもかなり印象深い企画展だった事を覚えています。

なんなら黒歴史的なブログもあります。恥ずかしくて泣きそうなので出しません。

 

www.mori.art.museum

 

メタボリズムの未来都市展は大規模で、専門的、且つ、私の様な素人に対しても

間口を開く企画展だった訳ですが、未来が過去から引き継がれてるいることを

映すという点で、素晴らしい企画展でした。

…というか前段で触れた100年後の日本を描いた絵画に近いものが有りました。

笑いはそこに無くて、現実的に可能か、当時のビジョンと今の現実のギャップを考える

事に終始した事を覚えてる。真面目だったんだろうな。

 

さて、未来と芸術展の玄関口には下記の様な文章があります。

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結論から書くと、現代は哲学的な思考とアートへの批評的な洞察が必要な時代

というのは僕も同意なんけど、

それは洞察出来ない人が強大な情報量とIoTネットワーク他の渦に巻き込まれて行く

=消費という名の労働を行う大衆になるということだと思ってる。

(radicalに書いてしまった)

 

だからこそ思ったのは、企画展にあった夢のような楽しく明るい未来=都市と

一緒に生活できる人はどれくらいいるだろうと。

自己顕示的な意味で言えば、自分や自分の仲間はそこにいるだろうかと思った。

 

そして、もしいないのであれば悲しいし、いる誰かを羨ましく思うだろうと。

→そのことがきっと別の都市を生むんだろうと思った。

 

 

長くなったので後編に行きましょう。